江戸(東京)で寿司屋が店を構えるようになったのは、1684〜1687年 、東京四谷に二軒 ったと記録に ります。その後しだいに増え、1924年に行された、「江戸買物案内」には二十余軒の寿司屋の名前がでていました。その当時の有名なお店は下記の通りでした。
またその は、「寿司売り」と称して頭に手ぬぐいを被り、身綺麗な着付けで白木の を肩に担いで「寿司やー、こはだのうす寿司ぃー」と美声で売り歩いていたそうです。そして、このころの店の多は、屋台形式で片流れの屋根を付け、前と両側に油障子を立て、その中でツケ台ににぎり寿司を置いて、お客様は立って召し上がるという立ち食い形式だったそうです。現在でもにぎり寿司を、お好みで召し上がるお客様を「立ち」のお客様と呼ぶのは、このためです。年代が進むに連れ、寿司店の店構えも現在のような体裁になってきました。 | ![]() |
「寿司」正しは「なれ寿司」は、保存食として東南アジアから中国へ、そして我が国へと伝えられたものです。すなわち寿司とは、東南アジアの山間民族の間で行われていた魚の貯 方法で、初期の材料の多は川ざかなにかぎられていたそうです。
我が国の寿司に関する最も古い文献は、1200年前のもので り、その中に「雑鮓」、「鮎貝鮓」といった文字が出ているといわれ、その後「なれ鮓」の製法が材料の分量まで記載されるようになりました。さらに、500年程前の室町時代末期には「半なれ鮓」が現われました。 |
![]() | 一般に寿司が普及し初めたのは、江戸時代中期のころで り、それは、現在の琵琶湖周辺の特産となっている、「鮒すし」のようなものでした。従って寿司は保存食としての色彩の濃いものでした。その後製造日数が短縮され、5〜6日から一夜でできる「一夜すし」へと変化してゆきました。これは、従来の冷やした御飯のかわりに熱い御飯を使って、醗酵速度を高めたものでした。
その後、延宝年間(1673〜1680)には、幕府の医師「松本 善甫」が現在のような「即席寿司」を考案し、急速にお寿司が普及するようになりました。これは当時「松本すし」と呼ばれていたとされていますが、その真偽は定かで りません。この「松本すし」は、現在も作られている「大阪寿司」風の 寿司で ったと伝えられています。 |
現在のような「にぎり寿司」が現われたのは、文6年(1823)江戸、両国の与兵衛寿司の「華屋 与兵衛」の考案とされています。これより36年前の天明7年に行された本には、天明の のり巻、ゆば巻、笹巻などが流行したことが記載されています。
このように、いなり寿司、巻寿司などは、にぎり寿司よりも以前に普及しており、徳川時代には現在とほぼ同じ形態のものが旅人の携帯食としておおいに利用されたいました。また、こうした寿司は、宿場ごとに伝えられ、元禄の終わり には一般に浸透していたそうです。現在、東京で寿司と言えば「にぎり寿司」を指しますが、このように寿司の歴史はのり巻、 寿司などの関西寿司のほうが古、技術的にも高度に洗練されてると言えるのではないでしょうか。 |